広報霧島8月号

広報霧島8月号 page 18/28

電子ブックを開く

このページは 広報霧島8月号 の電子ブックに掲載されている18ページの概要です。
秒後に電子ブックの対象ページへ移動します。
「電子ブックを開く」をクリックすると今すぐ対象ページへ移動します。

概要:
広報霧島8月号

会を行え」との※3 信しん託たくを受けて、魚や鳥獣を野に放し殺生を戒いましめる宗教行事「放生会」が始まりました。これは、私たちの町でも、鹿児島神宮に「浜下り」という行事で伝わっています。浜下りは、鹿児島神宮を出発して、「隼人塚」に立ち寄り慰霊の神事を行い、八幡屋敷を経て、浜之市で鯛たいを放し、その後、再び鹿児島神宮まで上のぼる一連の行事です。隼人塚では、隼人によって代々踊り継がれてきた隼人舞も奉納されます。四 隼人気質古代における日本最大の内乱は、このようにして終了しましたが、中央政府(時の権力者)に対して毅き然ぜんたる覚悟で立ち向かう、この土地の人々の姿勢・気質は、その後も、豊臣秀吉の九州征伐や幕末の倒幕、西南戦争など、歴史上幾度となく登場します。その気質は私たちの中にも残っているのかもしれませんね。(文責=鈴)これまで、隼人の人々がなぜ朝廷に抵抗しなければならなかったのか、さらにはその戦いの様子について述べてきましたが、今回は戦いの後についてお話します。一 戦いの終わりとその後隼人の抵抗が終わったことは、養よう老ろう五(七二一)年七月に隼人討伐軍が帰京したことで分かります。この戦いは一年数か月にも及び、隼人側だけでも千四百人余りの死傷者を出し、非常に過酷な戦いだったと思われます。戦後の様子を要約すると次のようになります。◎ 養老六(七二二)年四月、戦功を挙げた者に勲くん位いを与えた。◎ 養老七(七二三)年五月、大隅・薩摩の隼人六百二十四人が朝廷に出向き貢みつぎ物ものを贈った。天皇は歓迎し、族長三十四人に官位と禄ろくを与えた。◎ 養老七年六月、隼人は帰郷した。◎ 天てん平ぴょう元(七二九)年、大隅隼人に勲位と禄を与えた。◎ 天平神じん護ご二(七六六)年、台風のため作物が被害を受け、復旧作業のたとを物語っています。二 宇う佐さ八はち幡まん神しん話はさかのぼりますが、隼人軍を討とう伐ばつした朝廷軍は、大和勢をはじめ九州各国の兵士たちによって組織された連合軍でした。ここで疑問が生じます。「朝廷軍は果たして強固な連帯を持った組織だったのか」「隼人軍の抵抗に呼こ応おうして、九州の軍隊が裏切ることはなかったのか」と。当然、大和勢はこの危険性を察知していたらしく、これを払ふっ拭しょくするために、豊ぶ前ぜん国のくに(大分県宇佐市)にある宇佐八幡宮の御ご神しん体たいである「2※ 八幡神」の神みこし輿を陣じん頭とうにして、隼人討伐に臨みました。これは、戦乱の鎮圧には八幡神の力が有効だとする考え方に基づいた大和側の戦略だったと思われます。三 放ほう生じょう会え(浜はま下くだり)その後、宇佐八幡宮では、「八幡神を截たてて隼人討伐に参戦し、隼人を殺したので、その慰い霊れいと滅めつ罪ざいのため放生め1※柵さく戸この業務が一時解かれた。◎ 神じん護ご景けい雲うん三(七六九)年、和わ気けの清きよ麻ま呂ろが大隅国に流る罪ざいとなった。◎ 延えん暦りゃく二十(八○一)年、大だ宰ざい府ふに隼人の朝ちょう貢こうの停止を命じた。◎ 延暦二十四(八〇五)年、隼人の朝貢が終了した。この後、隼人の名は出てこない。このように、隼人の人々は終戦の二年後には朝廷に貢物をして従属の姿勢を示し、朝廷も懐かい柔じゅう策さくとして、官位や俸ほう禄ろくを与えました。天平神護二年(終戦から約四十年が経過)には、大隅国府の城柵の警備にあたる「柵戸」という役職があることから、まだ朝廷側は警戒していたことがうかがえますが、台風被害の際にその役職を一時解いていることから養老年間のような緊張はなかったようです。また、和気清麻呂の流罪地に大隅国が選ばれたのは、遠国であったことと治安が良かったことを示しています。さらに九世紀になると、朝廷への貢物がなくなり、「隼人」の記載も見られなくなったことから、大隅・薩摩の両国で安定した統治が機能し始めたこ隼人の抵抗●?シリーズ大隅国を知る ?隼人塚で慰霊の神事行列? 浜下りの様子※1 城柵防衛のために置かれた人々。※2 武運の神(武神)。※3 神のお告げ。神が人に乗り移り神の意思を伝えること。今年は建国1300年を記念して、隼人舞を披露するイベントを開催します。ぜひご覧ください。?日時=8月20日(火) 午前10時から?場所=霧島市民会館※入場無料広報きりしま 18h i s t o r y & l e c t u r e