広報霧島 2013年10月号

広報霧島 2013年10月号 page 18/28

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広報霧島 2013年10月号

十六年の『国分の古こ蹟せき』に「隼人塚、一名熊襲塚」と書かれており、これ以降隼人塚の名前が定着したようです。四.慰霊の地としていずれにしても二つの隼人塚は、隼人の御み霊たまを供養する塚(供養塔)として造られたのは確かであり、その精神は「浜下り」という形で今日まで続いています。平成三十二(二〇二〇)年には、隼人の抵抗が起きて一三〇〇年目を迎えますが、それまでに隼人塚をはじめ隼人にまつわる遺跡や出来事について、少しでも解明できるようにしていきたいと思います。(文責=鈴)獲った猪いのししの肉を、三十三本の竹串に刺し、それを塚前に立てて隼人の霊を慰める祭事を行っていました。また、止上神社には江戸時代初めの慶長年間まで「王おうの御み幸ゆき」という大祭が残っていました。この祭も隼人の霊を鎮めるために始まったものであり、正月七日から二十四日まで神み こ輿しが巡じゅん幸こうしていた、と記録に残っています。三.隼人の隼人塚一方、隼人町内山田にある隼人塚は、基き壇だんを設けて、中央に石塔を三基並べ、その周辺に四天王像を配しています。この配列は全国的に見ても非常に珍しく貴重であることから、大正十年に国指定史跡となり、調査や石塔・四天王像などの復元を終えて、現在は「隼人塚史跡公園」となっています。隼人塚は、その名の由来や建立の時期・目的を含めて、謎の多い史跡でもあります。三国名勝図会には、「正しょう国こく寺じという寺の跡で、“正しょう宮ぐう(鹿児島神宮)の戒かい壇だん所しょ”と名付け、浜下りの神事を行った、その寺に四天王像と石塔残れり」と書かれており、隼人塚は正国寺の一部であったとされています。また、隼人塚の名も江戸時代には見当たらず、明治三十五年の『陸軍参謀本部地図』に「軍人塚」と記されています。隼人塚の名が初めて登場するのは、明治三天候不良に伴う飢き饉きん、天てん然ねん痘とうなどの疫えき病びょうの発生は、人心を惑わす怨おん霊りょうや死者の祟たたりであると信じられていました。隼人の抵抗によって、多くの死者をだし、その祟りを恐れた人々は隼人の霊を供養するために隼人塚を設けました。実は、霧島市には「隼人塚」と名のつくものが、国分重久と隼人町内山田の二か所にあります。二.国分の隼人塚国分重久にある隼人塚は、以前は塚になっていましたが、現在は水田の中に石碑だけが残っています。江戸時代末期の『三さん国ごく名めい勝しょう図ず会え』には隼人塚のことが次のように書かれています。「本社( 止と上がみ神社)の南西、三百十六間(約六〇〇㍍)にあり、水田の中に、小こまかき林りん叢そう森しん然ぜんたり、是これを隼人塚と號ごうす、隼人が首塚なりといふ、…」。隼人塚の周辺は真まな板いた田だ、猪しし切きり藪やぶともいわれています。以前は旧暦正月十四日の初はつ猟かりの日に隼人の抵抗●?シリーズ大隅国を知る ?三国名勝図会の隼人塚(国分重久)国分の隼人塚(国分重久)隼人の隼人塚(隼人町内山田)隼人の抵抗では、隼人側だけでも千四百人余りの死傷者がでました。前回は、この戦いで亡くなった人々の慰い霊れいと滅めつ罪ざいのために宇佐八幡宮や鹿児島神宮で行われている放ほう生じょう会え(浜下り)について述べましたが、今回は彼らの慰霊の地である「隼人塚」を紹介します。一.二つの隼人塚古代の人々にとって、地震や台風、広報きりしま 18h i s t o r y & l e c t u r e