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概要

広報霧島 2014年2月号

大隅国分寺 その壱シリーズ大隅国を知る ?州は火山灰(シラス)に覆われた台地で、耕作面積がほかの国に比べて著しく少ない地形となっています。また、当時の大隅国は、律令体制の導入に対して隼人の人々の抵抗が著しく、班はん田でん収しゅう授じゅの法が敷かれたのは建国から八十七年が経過した延えん暦りゃく十八(八〇〇)年になります。さらに、八世紀後半は火山噴火や地震、台風、飢き饉きんなどの天災地変が続き、社会不安や作物不振で、とても国分寺を造営できるような状況ではなかったと思われます。加えて、国分寺建立に際して、建物を造る宮大工や瓦工などの職人の確保も、非常に困難であったと思われます。寺院建立の技術は六世紀に中国から導入され、日本の風土にあった独特の寺院建築に発展してきましたが、この建築技術を継承する工人たちは少なく、国分寺を全国で同時期に建立することはできなかったと思われます。これは、大隅国分寺跡から出土した瓦(布目瓦)の文様が、日向国分寺と酷似していること、さらに薩摩国分寺の瓦が肥ひ後ご国分寺に酷似していることから、一つの国分寺が完成すると次の国分寺の造営に入るといった工人たちの移動があったと思われます。大隅国分寺の建立とその後については次回紹介します。(文責=鈴)四.大隅国分寺の建立とその背景国分寺の建立は、大隅国にとっては経済的、建築技術的にみてもかつてない大事業で、その創建はかなり遅れたようです。これは、大隅国だけの実情ではなく、「続しょく日に本ほん紀ぎ」によれば、天平十九(七四七)年以降、国分寺建立の督促の詔みことのりを数回出していることや、天てん平ぴょう勝しょう宝ほう八(七五六)年十二月の記事に六十六の律令国のうち二十六の国分寺の名前しかなく、まだ半数以上の国が建立していないことからもわかります。九州では筑前、薩摩、大隅の名前が記載されていませんでした。大隅国分寺の建立が遅れた要因はいくつかありますが、主に経済的面が脆ぜい弱じゃくであったことが考えられます。南九② 大だい般はん若にゃ経きょう、法ほっ華け経きょうなどの書写を納めること③二寺(僧寺と尼寺)の建立④僧の人数(僧寺20 人・尼寺10人)⑤寺領(水田10町)を与えること⑥安全で景色の良い場所に建立国分寺は、当時の建築技術の粋すいを集めたものでした。奈良時代の一般庶民のほとんどが、縄文・弥生時代と同じ竪穴住居で生活している中で、50㍍を越す七重塔などを建立する国分寺は、羨望の的であるとともに、律令国家体制の「力」の象徴であり、まさしく「国の華」とうたわれました。三.国分寺の構造国分寺の大きさは「方ほう二町」とされ、一辺約220㍍の敷地の中に、南門、中門、塔、講堂、金こん堂どう、鐘しょう楼ろう、経きょう蔵ぞう、僧房、食じき堂どうなどがありました。建物の配置は南から北へ一直線上に、南門、中門、金堂を配し、金堂を囲むように回廊を巡らせていました。国分寺の中心は金堂で、塔は金堂から離れた東側か西側に配されました。霧島市「国分」の名の由来となった国分寺は、奈良時代に聖しょう武む天てん皇のうの勅ちょく願がんによって国ごとに設置された国立の寺院で、僧そう 寺じと尼に   じ寺がありました。正式名は、僧寺を「金こん光こう明みょう四し天てん王のう護ご国こく之の寺てら」、尼寺を「法ほっ華け滅めつ罪ざい之の寺てら」といいます。今回は大おおすみの隅国くににあった国分寺「大隅国分寺」について紹介します。一.国分寺の建こ ん立りゅう国分寺建立前、七三〇年ごろの日本は、地震や天候不良による凶作、天てん然ねん痘とうの流行などで多くの人々が苦しんでいました。また、大和朝廷と朝鮮半島の新しら羅ぎとの関係が悪化し、東北地方では「蝦え夷ぞ」の人々が不穏な動きを見せていました。さらには中国大陸と朝鮮半島に対する守りの要かなめであった大だ宰ざい府ふで、藤ふじ原わら広ひろ嗣つぐが反乱を起こすなど、世情不安が続いていました。そこで、聖武天皇は、鎮ちん護ご国こっ家かと五ご穀こく豊ほう穣じょうを願って、天てん平ぴょう十三(七四一)年、国ごとに僧寺と尼寺の建立を命ずる詔しょう勅ちょくを出しました。二.「国の華は な」国分寺国分寺とはどのような寺だったのでしょうか。聖武天皇は、国分寺建立に際して、いくつかの条件を出しています。要約すると次のとおりです。①仏像の造ぞう立りゅう、七重塔の建立紀伊国分寺伽藍配置図僧房講堂金堂南門中門塔経蔵鐘楼広報きりしま 18history & introduction