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概要

広報霧島2014年6月号

充実した設備で素晴らしい音楽に触れられるみやまコンセール。しかし、その場所は決して交通の便がいいところとは言えません。ではなぜここに建設されたのでしょうか。「みやまコンセール建設について話すには、まず霧島国際音楽祭の話をしなければなりません」。国際音楽祭牧園友の会会長で、建設当時のことを知る池田政まさ晴はるさん(89)はそう言います。霧島国際音楽祭は、世界で最も楽員の多い名門オーケストラ「ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団」の首席コンサートマスターだった故ゲルハルト・ボッセ氏の発案によって、昭和55(1980)年に始まりました。きっかけは昭和50年、当時鹿児島短期大学教授だった野村三郎さんがボッセ氏に学生への指導を依頼したこと。霧島に案内されたボッセ氏が、その自然に一目ぼれしたこともあり、演奏会と若手音楽家育成の2本柱の音楽祭をこの地で開催できないかと提案されました。♪ アジアを代表する音楽祭へこの提案を受け、昭和54年に地元の音楽愛好家が「鹿児島室内合奏協会」を設立。翌年同協会の主催で当時霧島田口にあった霧島高原ユースホステルを会場に第1回目の霧島国際音楽祭・講習会が行われました。昭和59年には財団法人ジェスク音楽文化振興会が音楽祭の事業を継承し、その後、鹿児島県、県文化振興財団が加わり音楽祭は発展していきます。日本で最も歴史ある音楽祭の一つといわれ、台湾、韓国をはじめ世界中から素晴らしいアーティストと受講生が集まる霧島国際音楽祭。現在、その参加者数は200人を超え、名実ともに“アジアを代表する音楽祭”として成長していったのです。♪ 地域と共にそんな音楽祭を陰ながら支えてきた人たちがいます。昭和61年に牧園と霧島、翌年には鹿児島で発足した友の会の会員たちです。池田さんは「3つの友の会はそれぞれ、音楽祭の発展と地域の活性化を願い、さまざまな取り組みをしました。牧園友の会では、音楽家を料理でもてなす交流パーティー、地元の人も出演するファミリーコンサート、小学校での学校コンサートなどを実施。最初は格式高いと敬遠されていた音楽祭も地域密着の催しを重ねるうちに、少しずつ参加者が増え、いつしか住民にとって身近な存在になっていきました」と当時を振り返ります。そして、それに伴い、ホテルのロビーなどで開催されていた音楽祭をきちんとしたホールで開催できないかという声が高まります。♪ この地に奇跡のホールを「ボッセ先生はずっと『この地に音楽ホールが欲しい』と言われていました。徐々に地域の熱も高まり、当時県議会議員だった現霧島市長の前田終止さんが県議会の一般質問でホール建設について発言。住民による県知事への陳情活動。何年もかかりましたが、財政的問題を抱えていた県を動かしたのは、それまでの音楽祭の功績と音楽祭×1 4年=みやまコンセールの誕生?? ??? ? ? ?