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概要

広報霧島2014年8月号

天降川中流域の文化財また、天降川沿いにも川床部に凝灰岩を彫った用水路跡があります。これは江戸時代後期に新田開発に伴い、入戸火砕流堆積物の特質、すなわち断層の亀裂によってできた洞窟の活用や、軟質で加工しやすい(彫りやすい)凝灰岩の特性をうまく用いたものと思われます。当時の薩摩藩は、火山灰土(シラス台地)による水田不足や逼ひっ迫ぱくしていた財政状況から、新田開発は緊急な政策の一つであり、当地のような山間部にあっても、新田開発の動きがあったものと思われます。地元の古老の言い伝えによると、洞窟の用水路への活用策は、幕末から明治維新にかけて活躍した西郷隆盛の勧めであったと言われています。このように、天降川中流域には、地形や露出している岩石(凝灰岩)を巧みに利用した古いにしえの人々の知恵や歴史を垣間見ることができます。(文責=鈴)形状をかなり残す、見事な中世山城となっています。踊城は、シラス台地の特性を非常にうまく取り入れた山城です。例えば、溶結凝灰岩の柱ちゅう状じょう摂せつ理りによる断崖絶壁が周囲を廻らしており、台地上であっても、火砕流堆積物の凝結と非凝結の境目から湧水が見られるなど、長期の籠ろう城じょうに適しています。三、新田開発(用水路)塩浸水力発電所近くの天降川に、大きく西側に蛇行している河川を横断するように、おそらく断層に起因する亀裂を穿うがった洞穴があります。この壁面には人為的な石いし鑿のみの痕跡が残されており、出口(下流側)付近には凝灰岩を彫って作った用水路があります。れ険しい谷底にあったため、奇跡的に現在まで残りました。二、大お お隅す み踊おどり城じょう跡大隅踊城跡は、天降川と久く留る味み川の合流地点左岸にあり、シラス台地の尾根筋を使った南北約500㍍、東西約750㍍の城域を持つ城跡です。標高224・3㍍を最高所として、南・西・北側は大きく蛇行する天降川が削り出した高さ約60㍍の断崖に囲まれた天然の要害となっています。踊城は、当初横川氏が治めていましたが、その後、税さい所しょ氏、北郷氏、北原氏となり、永禄五(一五六二)年からは島津氏の所領となりました。江戸時代になると、牧園麓にあった※3地じ頭とう所しょの緊急時の詰め城となり、いつしか踊城から城山と呼ばれるようになりました。城の形態としては、天降川に囲まれた天然の城壁(天降川を外堀とした)に、唯一尾根がつながっている東側を三重の空から堀ぼりを巡らしたことで、難攻不落の山城となっています。また、尾根筋に主な施設が並び、主要部は当時の6月号で、天降川流域が国の天然記念物に指定されたことと、川の地形について紹介しましたが、今回は河川の周辺の特異な地形を生かした歴史的遺産(文化財)について紹介します。一、赤あ か水み ずの岩い わ堂ど う観か ん音の ん磨ま崖がい仏ぶつは、自然の岩石や崖面に彫られた仏像のことで、全国的には奈良時代に始まり、平安時代になると各地で盛んに彫られるようになりました。鎌倉時代以後になると、周囲を※1龕がん状じょうに彫りくぼめて仏像を浮き彫りにした形式が見られるようになりました。横川町の赤水地区にある※2来らい迎ごう阿あ弥み陀だ三さん尊ぞん磨崖仏はその代表的な一つです。この磨崖仏は天降川流域の深い渓谷にあります。入いり戸と火砕流堆積物(約3万年前)の傾斜角約80度の凝灰岩の山肌に彫られ、地上1・6㍍の所を底辺として、高さ1・4㍍、幅3・5㍍、奥行き0・45㍍をくり抜いています。本尊と左側の勢せい至し菩ぼ薩さつとの間に、建けん武む二(一三三五)年の銘があり、鎌倉幕府滅亡後間もない時期に造られたものです。本来は、明治初頭に起きた廃仏運動で壊される運命でしたが、人里から離↑※1/断崖を掘って仏像を安置する所 ※2/阿弥陀如来が菩薩を従えて、臨終した人を極楽浄土へ迎えに来ること ※3/薩摩藩の地方行政府のこと赤水の岩堂磨崖仏川床に用水路跡が残る壁面に石鑿跡大隅踊城跡広報きりしま 18histor y & national park