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概要

広報霧島 2014年10月号

薩摩藩の財政再建 その?万両に達しました。薩摩藩の負債の推移は次の通りです。元和二(一六一六)年    2万両寛永九(一六三二)年    14万両寛永十七(一六四〇)年    38万両寛延二(一七四九)年    56万両宝暦四(一七五四)年    66万両享和元(一八〇一)年  117万両文化四(一八〇七)年  126万両文政十二(一八二九)年  500万両当時の薩摩藩の500万両の負債は利息だけで年80万両を超えています。薩摩藩の年収が12~14万両であったことを考慮すると実質的には返済不可能であり、破産状態に陥っていました。そこで薩摩藩第8代藩主島しま津づ重しげ豪ひでは、唐から物もの貿易で成功した調ず所しょ広ひろ郷さとの手腕に注目。下級藩士でありながら財政改革の担当に大抜擢しました。天保元(一八三〇)年十二月には、三カ条から成る注1朱しゅ印いん状じょうを与え、財政再建の全権を任せます。朱印状の内容は次の通りです。① 十年間で50万両の積立金をつくること。② その外に平時ならびに非常時の手当て(予備金)も蓄えること。③古い借証文を取り返すこと。調所による財政再建のてん末と藩のその後については、次回紹介します。(文責=鈴)があった。⑥ 徳川将軍家や公家との婚姻に際し、多額な出費を要した。特に、享きょう保ほ十四(一七二九)年、藩主継つぐ豊とよへの将軍家養女である竹姫の輿こし入れでは、御ご守しゅ殿でん(竹姫の住まい)の造営から豪華な婚礼儀式、200人もの女中を抱えた。竹姫の一年間の生活費だけでも5000両余りを要した。二、薩摩藩の負債の推移薩摩藩の慢性的な財政赤字は、江戸時代初期から始まり、元げん和な二(一六一六)年には2万両、治水工事の始まる宝暦四年には66万両となっていました。その後も、安あん永えいの桜島噴火(一七七九年)による田畑の損そん壊かいや数度の江戸藩邸火災などが重なります。代々の家老たちも改革や倹約令を試みたものの、藩の負債は増加の一途をたどりました。さらに、天てん明めい八(一七八八)年の京都大火で御所が炎上、藩邸も類焼。御所造営料20万両の上納を命ぜられるなど、宝暦の治水工事から約80年たった文ぶん政せい十二(一八二九)年にはついに500費用は石高に比例したため、薩摩藩は莫大な負担を強いられた。特に宝ほう暦れき四(一七五四)年から始まった「木曽三さん川せん治水工事」は90 余名の死者と40万両もの費用がかかり、藩財政に致命傷を与えた。④ 藩内は生産性の低い火山灰土壌(シラス)に広く覆われており、やせた土地が多く、稲作や野菜の生産に適した土地が少なかった。⑤ 台風や火山噴火、土砂崩れなどの自然災害が多く、特に霧島山噴火、桜島噴火の火山灰によって多大な被害現在の熊本県にあたる肥ひ後ごの石工「岩いわ永なが三さん五ご郎ろう」は、江戸時代末期、甲こう突つき川がわの五ご石せっ橋きょうや国分広瀬の小こ村むら新田護岸、福山の地じ頭とう仮屋跡(旧福山小学校)の石垣など、薩摩藩内の石造構築物を多く手掛けました。その薩摩藩は当時、深刻な財政難に苦しんでいました。多額の費用がかかる土木事業をなぜ行うことができたのでしょうか。それは「薩摩藩の天てん保ぽうの改革」といわれた財政再建改革で捻出した資金のおかげでした。今回から2回にわたり、その資金にまつわる型破りな財政再建について紹介します。一、薩摩藩の財政難の実情薩摩藩の石こく高だかは77万石といわれ、加賀藩102万石に次ぐ第二の大藩でした。しかし他藩に比べ地域性や身分構成に欠陥があり、江戸時代当初から財政難に苦しんできました。その要因は次のとおりです。① 武士の割合がおよそ25%と非常に多かった(他藩の平均は5%ほど)。② 薩摩藩の石高77万石は籾もみ高であり、玄米高にすればおよそ半分の36万石程度だった。③ 幕府が諸大名に命じた御お手て伝つだい普ぶ請しんの注1:朱印を押した公文書当時の面影を残す小村新田水門。国分広瀬の国分隼人クリーンセンター南側堤防にある(防波堤の拡大)広報きりしま 18histor y & national park