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概要

広報霧島 2014年10月号

今から260年前、私たちの祖先である薩摩藩の人々が、多くの犠牲を払いながらも成功させた奇跡の大工事があったことを皆さんはご存知ですか。その場所は鹿児島から1000㌔ほど離れた岐阜、愛知、三重の3県にまたがる木曽、長良、揖い斐びの三さん川せん(通称:木曽三川)流域。相次ぐ洪水を防ぐために徳川幕府が命じたのは、これまでにない大規模な治水(洪水などの水害から命や財産を守るために行う事業)工事でした。当時の技術では不可能とも思われていましたが、約1000人の薩摩藩の人々は決して諦めない“薩摩隼人魂”で、1年3か月かけて難工事を成功させたのです。堤防の整備や河川の締め切りなどが行われたこの工事は、宝ほう暦れきの時代の治水工事だったことから「宝暦治水」といわれました。薩摩義士がつなぐ交流そんな薩摩藩の人々を、現地の人々は感謝の気持ちを込めて「薩摩義士」と呼び、恩過去の人々の暮らしが、層のように幾重にも重なり、歴史は作られていきます。みんなが知っている歴史、誰も知らない歴史。私たちは歴史の上に立っています。今年は薩摩義士の宝暦治水から260年の記念の年。薩摩義士の思いやあなたの周りの歴史から、見えてくるものがあります。難工事に挑む薩摩義士を描いた挿し絵(財団法人鹿児島県育英財団『薩摩義士』より)(写真:海津市商工観光課提供)洪水被害の繰り返し。途中、赤痢などの病気がはやって多くの人が死亡。工事がうまくいかないことへの罪責感や幕府への抗議から自害した人もいたといい、90余名もの犠牲を出しました。1年3か月かけて工事は完了しますが、薩摩藩が受けた人的被害と、藩で使う2年分のお金を費やした財政的損害は大きく、薩摩の農民たちの負担も大変なものでした。工事の検査が終わった3日後、平田靱負は鹿児島から遠く離れた岐阜の地で命を終えます。(多くの犠牲者と借金の責任を取るための自害という説と病死という説有り)宝暦治水に関する資料は少なく、その後工事のことはあまり語られませんでした。明治時代後半になると、恩に報いて感謝する“報恩感謝”の気持ちを持った木曽三川周辺の人々から薩摩義士顕彰の動きが湧き上がり、薩摩藩の人々を称えて「薩摩義士」と呼ぶようになります。その心が、遠い鹿児島県にも伝わってきたのです。温故知心その心をつなぐONKOCHISHIN岐阜県海津市広報きりしま 2