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概要

広報霧島 2014年10月号

祖先のことを学び、歴史を伝えていかなければならないと感じました」と振り返ります。海津の人々の報恩感謝の思いが国分の人々の胸を打ち、両市町の青年団は昭和45年9月に兄弟姉妹青年団盟約を締結。“海津さつま会”と“国分さつま会”を立ち上げます。それに続き、同年11月、「報恩感謝」と旧国分市が道義心を高めるために掲げていた「道義高揚」には共通する心があると、両市町も姉妹都市盟約を結びました。平成18年には海津市、霧島市として再度、姉妹都市盟約を締結。中高生の交流や薩摩義士の歴史研究・普及活動などを続けています。に報いて感謝する「報恩感謝」の気持ちを持ち続けてきました。一方、鹿児島県でその歴史を知る人はごく一部。歴史は埋もれかけていました。昭和42年から岐阜県海津市(旧海津町)と交流を続ける国分さつま会会長の道どう場ば勝さん(70)も「初めて海津を訪問したときは薩摩義士という言葉も知らなかった」と話します。「薩摩義士の歴史を知り感銘を受けた当時の国分市議会議長の発案で、両市町の青年団が交流することになり、よく分からないまま参加しました」。胸打つ「報恩感謝」の思い「初訪問の際、鹿児島から来たと話すと、手を合わせて“ありがとう”とお礼を言われる方がいて、本当に驚きました。海津町長からも“薩摩様”と厚いもてなしを受け、胸を打たれたことを今でもよく覚えています。自分たちの国分さつま会道場 勝さん(70)世紀の大工事を成し遂げた薩摩義士を知っていますか木曽三川(岐阜県、愛知県、三重県にまたがる木曽川、長良川、揖い斐び川)の下流域は海抜0㍍以下の土地がほとんどで、頻繁に起こる洪水に人々は困り果てていました。宝暦3(1753)年、徳川幕府はこの工事を薩摩藩に命じます。天降川川筋直しなど土木工事の技術が高かったこと、幕府を脅かす存在になりそうな薩摩藩の力をそぎたかったことが、距離的にも非常に遠い薩摩藩が選ばれた理由だといわれています。翌宝暦4(1754)年、家老の平田靱ゆき負えを総奉行に約1,000人の薩摩藩の人々が治水工事に取り掛かります。経験したことのない水の流れに、工事は予想以上の困難を極めました。工事をしては、また10km宝暦治水の主な工事場所●? 大おお榑ぐれ川がわ洗あらい堰ぜき(水の勢いを緩和するため長良川の支流である大榑川の入口に造られた)? 逆ぎゃく川がわ洗堰(木曽川の水が長良川に流れ込まないように造られた)? 油あぶら島じま締切(長良川と揖斐川の流れを分けるために約1kmの堤防が造られた。最大の難工事。現在の千本松原)※ 洗堰=堤防より少し低い堰。水かさが増すとその上を水があふれて流れるようにしたもの。揖い斐び川長良川木曽川大榑川●?●?●?油島大牧愛知県岐阜県三重県海津市3 Kirishima City Public Relations, 2014.10, Japan