ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

広報霧島 2014年11月号

薩摩藩の財政再建 その?四、歴史に埋もれた人々幕末から明治維新における薩摩藩の活躍の背景には、島しま津づ斉なり彬あきらによる西郷隆盛や大久保利通など身分にとらわれない優秀な人材の登用もありますが、強力な軍事力の整備や集成館事業など近代工業化のための財源確保は、調所の功績が大きかったといえます。調所は、歴史の表舞台に立つことなく、歴史の中に埋もれた存在でした。同様に、一つの事件によって悪人・非道の汚名を着せられた人たちも大勢います。赤あ穂こう浪ろう士しの敵かたき役となった吉き良ら上こう野ずけの介すけはその際たるもので、吉良家の領地である三河(現愛知県)では、堤防などの治水工事や新田開発などを積極的に進めた名君として、現代でも慕われています。このように、人々の評価は、時代の背景やそれぞれの立場によって随分変わってきます。調所をはじめ、薩摩藩全体の懸命な努力で行われた天保の財政改革。藩の危機を救った調所の功績は、近年になって再評価されるようになってきました。歴史に埋もれた人々に対して、改めて史実に沿った評価をすることは、後世に生きる私たちの役目ではないでしょうか。(文責=鈴)と、調所は江戸藩邸にて急死。死因は責任追及が藩主斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺といわれています。三、改革の評価調所は、借金の踏み倒しや、砂糖の専売で奄美の人々を苦しめたというイメージが強いですが、借金は廃藩置県で薩摩藩がなくなる明治四年まで着実に返済しています。借金返済で被害を受けた商人に対しても特産品などを扱わせて利益を上げさせました。また、殖産・農業の改革、役人の不正防止、軍制の改革などにも着手して成功しました。このように、調所の改革は単なる経費の節約ではなく、積極的な公共投資も同時に行うものでした。福山の地頭仮屋の石垣をはじめ、甲突川五ご石せっ橋きょうの架設、新田の干拓と補修、甲突川や川内川上流の大改修など、この改革によって整備されたインフラは、その後の薩摩藩や地域の人々に多大な恩恵をもたらしました。東市来町の苗なえ代しろ川地区では、薩摩焼の増産と陶工たちの生活改善に尽くしたことから、調所への尊そん崇すうの念は今でも強く残っています。受けた商人たちは、幕府に訴えましたが、調所は幕府に10万両を上納するなどして事前に根回しをし、幕府の介入を未然に防ぎました。これらの財政改革によって、薩摩藩は富強の藩へと生まれ変わり、弘こう化か元(一八四四)年には目標であった50 万両の備蓄も達成しました。調所は、土木事業にも力をそそぎ、新田開発や河川改修なども盛んに行いました。国分広瀬にある小こ村むら新しん田でんや福山の※2地じ頭とう仮かり屋やの石垣(旧福山小)は、調所が手掛けた事業の一環として整備されたものです。二、調所広郷の生涯調所は天てん明めい八(一七八八)年に城下士(藩士のうち鹿児島城下に住む者)の調所清きよ悦えつの養子となり、その後、隠居していた前薩摩藩主の島津重豪に登用されました。後に藩主の島津斉なり興おきに仕え、町奉行、地頭を歴任し、藩が行っていた琉球や清との密貿易にも関与。藩の財政、農政、軍制の改革に取り組みました。嘉か永えい元(一八四八)年、幕府の老ろう中じゅう阿部正まさ弘ひろに密貿易の件を問いただされる「薩摩藩の天てんぽう保の改革」で第8代藩主島しま津づ重しげ豪ひでが調ず所しょ広ひろ郷さとに指示した内容は、500万両の借財の処理に加え、50万両の蓄財を成すこと。さらに、非常時のための予備資金も蓄えるなど、無理難題ともいえるものでした。一、調ず所しょ広ひ ろ郷さ との財政改革調所は、薩摩藩の特産品である米、菜な種たね、(黒)砂糖、薬草などの品質の向上や流通の改善を行い、莫大な利益を生み出しました。1※唐から物もの貿易では、交易品・交易量の増加を幕府に働きかける一方で、許可品目以外の品も手広く取り扱いましたが、これについては密貿易という性質上、史料が乏とぼしく、全容は明らかになっていません。一方、支出削減策としては、500万両に達した負債を250年かけて返済する、しかも元金だけで利息なしという償しょう還かん法を、天保七(一八三六)年に京都と大阪で、同八年には江戸で断行しました。この一方的な償還法の変更で打撃を福山地頭仮屋跡に残る石垣←※1:中国からの輸入品“唐物”を扱う貿易 ※2:藩政時代の地方の役所広報きりしま 22histor y & national park