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概要

広報霧島 2015年1月号

キリシマツツジと霧島 その?植木職人が育成(品種改良)した桜を、昔から桜の名所として名高かった奈良の吉野にちなんで「吉野桜」として売りましたが、吉野の桜と混同される恐れがあるとして、「ソメイヨシノ」と改名。現在では日本を代表する桜となっています。三、キリシマツツジの広がりツツジは江戸の造園ブームに合わせて流行し、さまざまな珍しい品種の花が現れたと記録にありますが、その中でもキリシマツツジは、当時一番の人気を博していました。初夏の新緑が鮮やかな中に咲く緋ひ色いろ(鮮やかな赤)のツツジは、紅一点でとても艶やかな印象を受けます。古来より、緋色は紫に次ぐ官位に用いられており、また、魔よけや厄よけのまじないの色としても用いられていました。石川県の能登地方では、“幸せを呼ぶ花”として、キリシマツツジを嫁入りの時に花嫁に持たせたと伝えられています。このように、キリシマツツジは鑑賞用として、幸運を呼ぶ花として、江戸を中心に植えられ、その後全国へと広がっていきました。次回は、キリシマツツジの由来について紹介します。(文責=鈴)した。特に、大名屋敷として与えられた土地は郊外にはなったものの、広大であったことと、防火のために広く庭を取ったため、復興の途上にもかかわらず、造園が盛んになり、植木の需要が高まりました。それに伴い、江戸近郊の百姓たちも積極的に植木の生産に従事するようになり、農業との兼業をやめ、植木屋一本で生計を立てようとする者が現れるほどでした。江戸近郊の「染そめ井い」は植木の一大生産地となり、中でも植木屋伊い 兵へ衛いは、「霧島屋」と名乗ってツツジ類を中心に扱う植木屋に転業し、商売を拡張していきました。霧島屋と名乗ったのは、寛かん文ぶん年間(一六六一~七二)に薩摩藩霧島山産のキリシマツツジを取り寄せて挿木で増やし、諸国に広めたことに由来します。ちなみに、江戸時代末期、染井の愛でるという相反する考え方を持っており、西欧人では全く理解できない思考概念がある」と記しています。古来、日本人は草木や庭園の中に宇宙観や宗教観、季節感を表現する特異な民族で、盆栽や庭園はその最たるものといわれています。特に江戸時代に入ると戦乱が遠のき、新しい価値観である文化的思考が台頭してきます。その一つとして、盆栽や植木、庭園を代表とするような植物を愛でる文化が、武士階級だけでなく、民衆の中にも芽生えてきました。江戸の人々はツツジやアジサイ、アサガオ、キク、ボタン、モミジなどを植栽し、季節の移り変わりを楽しむようになったのです。二、江戸の植木と「霧島屋」そのような中で、江戸の町に植木屋が増え始めたのは、明めい暦れきの大火後のことです。明暦の大火は、明暦三(一六五七)年一月に江戸の大半を焼失させた江戸時代最大の大火災です。幕府は防火対策として空き地の確保や道路拡張、水路(運河)の整備のため、大名屋敷や寺院、町屋などの移転を行いま今年4月18日に「第2回全国キリシマツツジサミットin霧島」が霧島市で開催されます。キリシマツツジは、現在、石川県の能の登と半島で鑑賞用として盛んに植栽されていますが、鹿児島県内ではほとんど知られていません。キリシマツツジはその名前からも分かるように、本来は霧島(薩摩藩)が原産地で、江戸や※大坂を通じて全国に広がっていきました。今回から3回シリーズで「キリシマツツジ」について紹介します。一、日本人が愛め でた植木の文化アメリカの人類学者ルース・ベネディクトが著した「菊と刀」は、第二次世界大戦中、対戦国である日本の人民の気質や文化について研究した中から生まれた、日本研究の名著とされています。この著書では、恩や義理などといった日本文化の固有の価値観を詳細に分析しています。中でも著書名となった“菊”と“刀”は、「日本人、特に江戸時代の武士は、人殺しの道具である“刀”を愛でながら、同時に“菊”もキリシマツツジ(霧島永水)←※明治維新後、「大阪」が正式な表記となったが、それ以前は「大坂」とされていた。広報きりしま 14histor y & national park