ActiBookアプリアイコンActiBookアプリをダウンロード(無償)

  • Available on the Appstore
  • Available on the Google play
  • Available on the Windows Store

概要

広報霧島 2015年2月号

このように、キリシマツツジは霧島山から江戸に運ばれ、染井地域で栽培が盛んに行われ全国に広がりました。三、キリシマツツジとミヤマキリシマ「花は霧島 煙草は国分…」と歌われるおはら節の“霧島”はミヤマキリシマのことですが、古くは『三国名勝図会』に書いてあるキリシマツツジと同一視され、どちらもキリシマツツジと呼ばれていました。明治42年に、植物学者の牧野富太郎博士は、霧島原産で園芸種として改良して広く植栽されているキリシマツツジと、霧島をはじめ雲仙や阿蘇に自生するツツジを区別するために、後者を「深い山に咲くツツジ」という意味で「ミヤマキリシマ」と命名しました。次回は能登キリシマツツジとキリシマツツジの里帰りについて紹介します。(文責=鈴)「映きり山しま紅つつじは、霧島山中に多く自生し、咲き誇った時は山全体が燃えたようになった。(中略)現在、江戸でもてはやされているキリシマという躑つ つ躅じは、寛かん文ぶん年間(一六六一~一六七三)に伊勢津藩の藤とう堂どう出いず水みの守かみ高たか久ひさが霧島山から取り寄せ、江戸郊外の染井にある下屋敷に植えて愛めでた。下屋敷に出入りしていた植木屋伊い兵へ衛いが接つぎ木きや挿木で増やし、江戸で流行した」キリシマツツジを“映山紅”と表現していることから、新緑の山中に紅色のキリシマツツジが非常に映えたことがうかがえます。また、第三代津藩主藤堂高久は無類の花好きだったため、親交のあった薩摩藩から紅色の鮮やかなツツジを取り寄せて、津藩の別邸となっていた染井の下屋敷に植栽し、紅色のツツジを好んで観賞したとも書かれています。さらには、庭師として出入りしていた植木屋伊兵衛(きりしま屋伊兵衛)が、剪定したキリシマツツジの枝葉を自宅に持ち帰り、接木や挿木で増やしたことから、キリシマツツジは藤堂家の庭園から広まったと考えられます。当時は、前回で述べたように、庭園造りが盛んに行われており、時流に乗ってキリシマツツジは江戸で大流行しました。また、大老※柳やなぎ沢さわ吉よし保やすが造園し、今も東京都文京区にある「六りく義ぎ園えん」(一七〇二)は、江戸時代を代表する大名庭園(国の特別名勝)ですが、ここはキリシマツツジ(本霧島)をはじめ、その後品種改良した「八重霧島」「紅霧島」「大盃」「紫霧島」「日の出霧島」など十七世紀後半のころの古い品種が現存する貴重な庭園となっています。キリシマツツジの名所地としては、京都府の長岡天満宮や、館林市のつつじヶ丘公園、石川県能登地方などがあります。のの総称であり、四月から六月にかけて花が咲き、冬期は半分ほど落葉します。主として北半球に分布し、マレーシア、オーストラリアにもあります。日本では山野に多数の種類が野生し、また、観賞用として多くの品種改良されたツツジが栽培されています。歴史的には『出いずもの雲国くに風ふ土ど記き』(七三三)や『万葉集』(七五九)の中に見られ、万葉集では、茵つつじ花はな、都つ追つ茲じ花ばな、白しろ管つつ仕じ、白しろ管つつ自じ、丹あか管つつ士じ、石いわ管つつ士じの名で九首が詠まれています。特に、万葉集の二巻には水みな伝つたふ 磯の浦うら廻みの 石いわ管つつ士じ  茂もく咲く道を また見なむかもと詠われていますが、この磯の浦廻とは、天てん武む天皇の子、草くさ壁かべ皇子(六六二~六八九)の宮殿の庭園のことであり、七世紀後半にはすでにツツジが庭木として観賞されていたことがわかります。二、キリシマツツジとはキリシマツツジは、その名のとおり霧島山が原産のツツジで、江戸時代後期に薩摩藩領内の名所や地誌を記した『三さん国ごく名めい勝しょう図ず会え』には次のように書かれています。前回はキリシマツツジの広がりについて述べましたが、今回はキリシマツツジの由来について紹介します。ツツジは私たち日本人にとって身近で最もポピュラーな植物ではないでしょうか。花木として庭園や公園、公道の緑地帯などに植栽されるほか、鉢植えや生け花にも利用され、広く観賞されています。一、ツツジとはツツジは、学術的にはツツジ科ツツジ属のうち、シャクナゲ類を除いたも※藤堂高久は津藩安堵のため、老中であった柳沢吉保に接近しキリシマツツジを献上したといわれている。キリシマツツジキリシマツツジと霧島 その?←広報きりしま 18histor y & national park