ブックタイトル広報霧島 2015年5月号
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広報霧島 2015年5月号
は考えにくいことから、おそらく、大隅国建国の前後には宗教的な地域として使われていたのではないかと思われます。このように、台明寺域は当初は修験者たちの修業の場である霊窟として、台明寺が創建されてからは鎮護国家的な性格の寺院としてその役目は変わってきました。今、台明寺跡を見渡すと全くその面影がありませんが、十五世紀半ばには「※4三十四の房があった」と記録が残っていますので、当時は大変大きな寺院だったということが想像できます。これから、台明寺渓谷は若葉の鮮やかな季節を迎えます。当時の台明寺の面影を思いながらの散策はいかがでしょうか。(文責=鈴)には、正しょう嘉か元(一二五七)年に台明寺で新しい鐘を作り、その鐘の銘文の中に「天てん慶ぎょう九年の頃の古い鐘があって、その小さな鐘を鋳い改なおした」ということが書いてあります。天慶九年は九四六年なので、これが真実であったとすると、十世紀半ばには台明寺があったことが分かります。しかし、大隅国を鎮護するための道場として、台明寺が造られたのかというとそうではなく、それよりもさらに前の歴史がありました。台明寺跡の近辺に行きますと、豊富な湧水群(滝も含む)と険しい断崖があり、ここには多くの洞窟があったと思われます。その洞窟の中の幾つかが、修験者たちの信仰を集めるようになり、それが※3霊れい窟くつといわれるようになったようです。三、聖域としての台明寺では、いつごろからこの地が宗教的な聖域となったのでしょうか。寺院内にあった日ひ枝え神社の創建については、『神社明細書』の中で、弘こう文ぶん元(六七二)年と書いてあります。しかし、大隅国の建国は和わ銅どう六(七一三)年で、当時はまだ日ひゅうが向国のくにの一部であり、朝廷に反発を持った隼人の影響が非常に強い地域でした。朝廷側の神道や仏教の考え方が早い段階から伝え広まってきたので紹介します。一、 台明寺の位置台明寺は国分平野の郡田川をさかのぼった台明寺渓谷一帯にありましたが、明治初めに※1廃はい仏ぶつ毀き釈しゃくによって破壊され、今では石造物などの一部が残っているのみです。台明寺の位置については、『※2台明寺牒ちょう』(一二四〇)に「鬼き気きを禦ふせがんが為、国こく衙がの丑うし寅とらの方ほうにおいて、鎮ちん護ご国こっ家かの道場を建て置く」と書かれています。要約しますと、大おお隅すみ国のくにの政庁の中心であった国衙の丑寅(東北)の方向から災いが来るとされているので、それを防ぎ、大隅国が繁栄できるように台明寺を建てた、ということになります。これは、古代中国から伝わった「風水」に基づいた思想です。『鹿児島県史』にも、「平安時代に比ひ叡えい山ざんに倣ならって、国衙鎮護の道場として創建されたのが台明寺だろう」ということが書かれています。二、台明寺の創建台明寺の創建時期については、今のところはっきりしていません。古文書春先から初夏にかけての山菜というと、ワラビ・タラの芽・タケノコなどがあり、山菜取りを楽しみにしている方も多いのではないでしょうか。中でもタケノコは、種類ごとに次々と芽吹いて食卓をにぎわせてくれます。 今回は、鹿児島で昔からタケノコの中で一番おいしいといわれ、ダイミョウダケの発祥の地ともいわれる「台だい明みょうじ寺」と、ダイミョウダケで作られた笛「青葉の笛」について2回シリーズ※1 寺院などを壊し、僧尼や寺院が受けていた特権を廃すること。※2 律令制(古代)における公文書のひとつ。※3 神仏を祭った岩屋。神仏の宿る岩穴。※4 僧侶と弟子が修行・生活する建物。台明寺と青葉の竹 その?←日枝神社鳥居台明寺跡台明寺跡大隅国府跡大隅国分寺跡韓国宇豆神社旧天降川広報きりしま 18h i s tor y & geo park