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概要

広報霧島2015年7月号

昭和20年8月6日午前8時15分。いつもと変わらない夏の朝、広島に原爆が落とされました。爆心地から4㌔の場所で被爆した10歳の少年は死を免れましたが、悲惨な光景を目にしました。川を流れる無数の遺体、重いやけどで水を求める人々、初めてかぐ異臭、大量にわいたうじが遺体をむさぼる音。世間が敗戦を嘆く中、子ども心に『自分は死なないで済んだ』と安あん堵どしました。その後少年は就職し結婚。授かるわが子が原爆の影響を受けず無事に生まれるかおびえる中、季節外れの雪の日に女児を授かると、『被爆直後に黒い雨が降った同じ空から今は白い雪が降ってくる。この子が生きる世は平和で美しくあってほしい』と“みゆき”と名付けました。それからはわが子に原爆の怖さ、平和の尊さを話し続け、77歳の生涯を閉じました。学校や福祉施設などでそう語りかけるのは、平和の語り部活動を続ける北島みゆきさん(53)。話の「少年」とは北島さんの父親・万ま貴き夫おさんで、「みゆき」とは北島さん自身のことです。活動のきっかけは、北島さんが結婚を機に広島を離れたときのこる北島さん。「怖いと泣く子もいますが、それは原爆の怖さを分かってもらえた証拠。話の後には『絶対に戦争をしたくない』と話してくれます。この地道な活動がいつか平和の実現につながると信じています」と前を向きます。たくさんの励ましがある反面、後ろ盾なく一人で活動する北島さんは心ない批判や中傷を受け、活動をやめるべきか迷ったことも。そんなある日、偶然にも目の当たりにしたのが被爆した広島市の無残な航空写真。思わず手でさすっていた自分に驚き、「傷ついたわが子の痛みを分かち合うような気持ちに、ヒロシマを見捨てられない、語り部を続けようと覚悟を決めました」と打ち明けます。と。日常生活の中で原爆の悲惨さが語られていた広島と比べ、県外での原爆への関心の低さに北島さんは愕がく然ぜんとします。「父は水を欲しがり死んでいった被爆者をしのんで、墓参りで余った水をほかの墓に大事にかけていました。そんな姿を見てきた私は、いつしか被爆者の平和への思いを伝えなければと思うようになりました。県外に暮らす被爆二世の私なら、その地に原爆の怖さを伝えられる」と感じ、子どもの就職を機に活動を本格的に開始しました。語り部活動では、万貴夫さんから聞いたむごい表現をあえて使い、原爆の惨劇を聴覚や嗅覚などで訴え身近なものに例えるなど、何とか具体的に伝えようと工夫してい「ヒロシマ」を伝え続ける語り部Vol.101 THE SCENE霧島に生きる広報きりしま 16s l o w l i f e