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概要

広報霧島2015年7月号

空隊は第一国分基地に名称を改め、十三塚原の基地は第二国分基地と名付けられ、両基地からは多くの戦闘機が出撃しました。昭和20年3月には戦況の悪化により訓練部隊の機能を香川県の観音寺海軍航空隊へ移します。第一国分基地は、沖縄の地上戦に備え、実戦部隊とするため鹿屋に本部があった海軍第五区航空艦隊の指揮下に入りました。三、 特攻隊の出撃太平洋戦争末期におけるアメリカなどの連合軍の攻撃は激げき烈れつを極め、戦局は日に日に日本軍の劣勢となっていきました。そこで日本軍は敗色を一気に挽ばん回かいするため、250㌔の爆弾を抱えた戦闘機を敵艦に体当たりさせることで撃沈させる「特攻作戦」を実行します。作戦を担う神風特別攻撃隊(特攻隊)は第一国分基地と第二国分基地から、昭和20年3月18日から6月3日までの間に、16 回出撃し、427人もの尊い特攻隊員の命が南の海に散りました。その後、私たちのまちでは、祖国の勝利を願いつつ若い命を捧げて飛び立っていった特攻隊員の氏名を永久に残すため、陸上自衛隊国分駐屯地正門前と溝辺上床公園に特攻慰霊碑が建立されています。(文責=鈴)も激化し、国分航空隊の飛行機分散の必要性によって、溝辺の十じゅう三さん塚つか原ばる(現在の鹿児島空港付近)に新しく基地を建設することとなりました。二、 第二国分基地溝辺の十三塚原の基地建設現場には溝辺地域の住民を中心に鹿児島市や指宿など県下一円から多くの勤労奉仕者が動員されました。遠方の人たちは日当山の宿舎に泊まり込み、毎日夜明け前の薄暗い時間に出発し、現場まで長い坂道を歩いて行きました。重機などもなく、全てが手仕事で基地建設が進められました。高台で水が少ない十三塚原では、水を確保するため一升瓶を数本背負い、1日4往復ほど隼人町迫は さ間まの川までくみに行ったそうです。十三塚原の飛行場は昭和19年末に一部完成します。これにより国分海軍航今年は太平洋戦争が終結して70年を迎えます。霧島市内には当時を物語る「戦争遺跡」が現在もなお残っています。今回は、当時の面影はなく、忘れ去られようとしている「国分海軍航空隊」について紹介します。一、 国分海軍航空隊太平洋戦争の開戦が濃厚となりつつあった昭和16年の春ごろ、航空要員の教育機関である国分海軍航空隊基地整備のため、大規模な用地買収が始まりました。基地の場所は、現在の陸上自衛隊国分駐屯地のある大おお野の原ばる地域。約300㌶の用地が必要とされたため、約200戸あった民家は、翌17年1月までに移転せよとの軍命令によって分散移転しました。移転先は、国分の有あり下した、川かわ跡と、越こえ倉くらや隼人の真しん孝こう、見み次つぎ方面でした。現在の隼人町川尻地区は、住吉新川から移転した集落です。なぜ国分に基地が整備されたのでしょうか。それは、地勢的に国分地域を含む南九州が、本土防衛の最終防衛ラインとして軍事的に重要であったためで、知覧や鹿屋のほか、加世田の万ばん世せいなど多くの基地ができました。突貫工事で進められた航空基地整備は昭和18年に完成し、翌19年8月からは海軍航空隊の少年兵を中心とした初歩練習部隊として航空要員の養成が始まりました。そのころになると、戦況戦後70年記念「国分海軍航空隊」←昭和23年米軍撮影「国分海軍航空隊跡」出典:国土地理院国分海軍航空隊広報きりしま 18h i s tor y & geo park