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概要

広報霧島2015年7月号

生きていることがつらかった「“君と国には忠義を尽くせ。親には孝行を尽くせ”子どものころから強く教えられ、それが当たり前だと思っていました」。そう話すのは、溝辺町竹た か子ぜの延のぶ時とき力蔵さん(88)。イベントや学習の場で、平和の大切さを伝えています。延時さんは昭和20年3月、18歳のときに整備士として鹿屋基地に配属。そこでの最初の任務に愕がく然ぜんとしたといいます。「1か月間、竹槍の穂先を作りました。本土戦に備えるための武器が竹槍。もう勝てないと思いました」その後の任務は、特攻機の整備。何度も戦闘を繰り返し、ボロボロになった飛行機を修理し、片道切符だけを持った特攻隊員を送り出しました。「“戦争を早く終わらせたい。家族が平和に暮らせるなら、死んでも悔いはない”と話す特攻隊員がいました。私と同世代。思いをかなえるために、必死で修理しました」当時基地は、毎日のように攻撃を受けました。延時さんは「ピシッ」と弾がすぐ横を抜ける音や足元で土煙が上がる体験を何度もしました。死と隣り合わせの中でいつも思っていたのが“ふるさと”。「仲間の遺体に手を合わせ“お前はいいよ、早く帰れて”とつぶやく兵士がいました。死への恐怖はありませんでしたが、ふるさとに帰りたいという思いはみんな強く持っていました。戦場では死ぬことよりも生きていることの方がつらかった」終戦後、溝辺町に帰郷。しかしそこで待っていたのは、不安と苦悩の日々でした。「これからの生活を考えたとき、不安しかありませんでした。兵士の中には、生きて帰ってきたことを責められた人も。“生きて帰ってきたらいけなかったのか”と肩を落とす仲間の姿に涙が込み上げてきました。戦争は終わっても、心の中にはいつも戦争の二文字がありました」今、延時さんが一番感じていることは平和の尊さです。「日本が勝っていたときには、みんなお祭り騒ぎでした。そのときの相手の気持ちを、日本が負けて初めて考えました。戦争では多くの命が失われます。生活が一変します。そこから生まれるのは、憎しみや苦しみ、悲しみだけ。そんな思いは二度としたくないし、誰にもさせたくない」時折、涙ぐみながら話す延時さんの言葉には、戦争体験者だからこそ伝わってくる重みがありました。延のぶ時とき力蔵さん(88)昭和17年4月15歳のときに長崎県佐世保市の軍需産業工員養成所に入所。昭和20年3月鹿屋基地に配属。終戦後、溝辺町竹子に帰郷、農業で生計を立てる。昭和41年~ 62年、平成3年?7年まで溝辺町議員、昭和45年には鹿児島空港建設調査対策特別委員会委員長などを歴任。平成24年に旭日双光章を受賞。撮影場所:旧田中家別邸(福山町)3 Kirishima City Public Relations, 2015.7, Vol.212, Japan