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概要

広報霧島2015年7月号

は二つの特攻基地があった。 そこから飛び立った隊員は、周辺の住民は、あの時どんな気持ちだったのでしょうか。戦闘機に爆弾を積み、敵艦に体当たりしていく壮絶悲壮な肉弾戦法「神風特別攻撃隊」。その基地が霧島市には2か所ありました。現在の陸上自衛隊国分駐屯地付近にあった第一国分基地、鹿児島空港の滑走路付近にあった十じゅう三さん塚つか原ばる飛行場ともいわれた第二国分基地です。そこから427人の若者が、敵艦のいる沖縄に向けて飛んで行きました。隊員のほとんどが20歳前後の若者。あの時、永遠に戻れないと知りながらどのような思いで飛び立って行ったのでしょうか。特攻隊員の遺書などを展示している溝辺コミュニティセンターの特攻資料展示室。その中の当時17歳だった隊員が残した短歌から、あの時の思いを知ることができます。「三み千ちとせの 歴史を守りて 捨つる身を 思えば軽き わが命かな」。命を掛けて日本の歴史を守ろうという覚悟が書かれた短歌です。ある人は国を、ある人は愛する家族や恋人を、ある人は日本の未来を守るために自分の命をかけた特攻隊員。その思いは決して忘れてはいけない、このまちの歴史です。強制移転、時限爆弾特攻の影響は住民にも特攻基地は、周辺の住民の暮らしにも大きな影響を与えました。その一つが「強制移転」。国分広瀬の宮永光雄さん(79)も、強制移転させられた一人です。「昭和18年、国分基地の滑走路を海岸まで延ばす計画があり、基地の南側に住んでいた多くの家が強制移転させられました。私も家族と国分湊に引っ越すことに。すぐには湊の小学校には入れず、1年間は国分広瀬にあった小こ村むら小学校に通いました」特攻基地に翻ほん弄ろうされた生活。その中で、特攻隊員との交流もありました。「滑走路の草取りによく借り出されました。出撃する特攻隊員の見送りにも行き、滑走路に一列に並んで飛び立つ特攻機に手を振りました。出撃前日、特別に許される最後の自由時間に、学校に来る特攻隊員もいました。当時は貴重だったチョコレートをみんなに分けてくれました。今思えば、あれはふるさとの兄弟と私たちを重ねていたのかもしれません。次の日、毅き然ぜんとした表情で特攻機に乗り込み、南の空へと消えていく光景は、今でも思い出すだけで涙が込み上げてきます」宮永さんは、基地周辺の暮らしぶりを次のように振り返ります。「基地を狙って、毎日のように敵の攻撃があり、空襲警報が鳴り響くと近くに防空壕ごうが無いため、湊の自宅まで急いで逃げ帰りました。湊小学校に転校した昭和19年4月ごろからは、いっそう空襲が激しくなり、下校中、敵の戦闘機に機銃掃射で狙われて慌てて土手に隠れたこともあります。逃げる途中に家族とはぐれ、一人で必死に逃げたことも。毎日が本当に怖かった」さらに宮永さんは、当時の貴重な証言をします。「兵士が隠れている可能性があるということで、民家な広報きりしま 4