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概要

広報霧島2015年7月号

「70年たった今でも、あの日の光景を忘れることができません」。そう話すのは、隼人町小田の柿かき木き道子さん(84)。当時の記憶が走馬灯のように浮かんでくるといいます。敵の空襲が激しくなってきた昭和20年。柿木さんは当時14歳、国分高等女学校(現国分高校)の3年生でした。毎日のようにアメリカの爆撃機B29が飛んできて、空襲警報が鳴ると学校近くの防空壕に、家では裏山の防空壕に避難を繰り返す日々でした。「爆弾の爆発の衝撃はすごかったです。音とともに体の中にまで響いてきました。友達や家族と体を寄せ合い、とにかく“早くいなくなれ”と心の中で祈っていました」食糧や物資があまりなかった時代。乗り越えられたのはみんなで交わした誓いでした。「畑で作ったカライモやカボチャが主食。それがなくなるとカライモの蔓つるやカボチャの茎を食べました。時には田んぼでイナゴを捕まえて佃煮にして食べたことも。着る物もなく、祖母や母の着物をほどいて作ったもんぺをはいて学校に行きました。あのころのみんなの合言葉は“欲しがりません、勝つまでは”。その言葉を胸に、我慢の日々でした」火の海と化した集落終戦前のある日、柿木さんは下校中に空襲に遭い、国分府中の集落が火の海と化しました。「燃え上がる炎の中を、無我夢中で走って逃げました。隼人町小田の自宅までどうやって帰ってきたのか、全然覚えていません。とにかく必死に走りました。夏になると、あの日の光景を今でも思い出します」ようやくたどり着いたわが家。しかしそこには驚きの光景がありました。「すぐ近くに大きな爆弾が落ち、爆風で家が傾き、皿などが散らばっていました。家族が心配になり、大声で呼び掛けました。幸い、防空壕に避難していてみんな無事でしたが、弟の友達が亡くなったり、知り合いが家を失ったりと、本当につらい過去です」戦争は、大人子ども関係なく、全ての人が当事者です。柿木さんは「少女心に受けた心の傷は今も癒えません。自分の孫やひ孫には、あんな思いは絶対にさせたくない」と願いを込めます。夏になれば思い出す火の海の中を走って逃げた「あの日」のことを合言葉は“欲しがりません、勝つまでは”。その言葉を胸に、我慢の日々でした。隼人町小田 柿かき木き道子さん(84)広報きりしま 6