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概要

広報霧島2015年8月号

ろで、御み池いけの七港の一つ「護ご摩ま壇だん港みなと」の名が残っています。霧島山と六社権現 霧島山は、修験者が修行する神聖な地であり、当時の霧島山の火山活動は桜島よりはるかに活発であったことから「恐山」として畏敬と信仰の対象でありました。霧島六社権現のある場所は、共通して霧島山の入り口にあるように思います。これは、穢けがれを落して身を清めてから入山するために、神社を置いたとも考えられます。穢れたまま入山すると山の神が怒いかる、すなわち火山噴火につながることを恐れていたのではないでしょうか。東日本大震災のとき、神社や祠ほこらの位置が津波の被害を免れた境界線であったように、霧島六社権現もそれぞれ意味のある場所に建立されているのではないでしょうか。(文責=鈴)は霧島山そのものを御神体とした「霧島御お山やま信仰」でした。また、最近では観光的な意味合いで、えびの市の「白鳥神社」や、高原町の「霞神社」を入れて六社とすることもあるようです。霧島六社権現にはほかに、「霧島六所権現」という表現があり、しばしば混同されているようですが、六所の「所」は、神仏や貴人を数えるのに用いる語であり、場所のことではありません。日向三代の※2 夫婦六座を祀まつっているので六所権現といいます。性しょう空く う上しょう人に んとは霧島六社権現や白鳥神社、霞神社を整備したのは、十世紀、村上天皇のころ、天台宗を奉じ修しゅ験げん道どう信仰を確立した性空上人です。性空上人は霧島でも修行して霧島山信仰を体系付けた人物です。高千穂峰頂上にある「天あまの逆さか鉾ほこ」も、この性空上人の流れをくむ修験者が置いたものではないかといわれています。応おう和わ三(九六三)年、三十六歳のとき、霧島山の山中で四年の間苦しい修行を積んだ後、京都に帰りました。その後、兵庫県の書しょ写しゃ山ざんに円えん教ぎょう寺じを開山し、弥み勒ろく寺じで寛かん弘こう四(一〇〇七)年※3 八十歳で※4 入にゅう寂じゃくしました。性空上人は霧島滞在中、狭野神社の※5別べっ当とう寺じ神しん徳とく院いんの再興や霧島東神社別当寺錫しゃく杖じょう院いんの開山をはじめ、農業の指導や市を開くなど、大いにこの地域の振興に努めました。霧島山中には、性空上人の足跡が至るところに残されています。霧島東神社近くの絶壁の洞穴に性空上人の石像が安置されています。ここは性空上人が護ご摩ま供く養ようをしたとこ今回は、霧島山を囲むように鎮座している「霧島六ろく社しゃ権ごん現げん」を紹介します。霧島六社権現とは霧島六社権現とは、霧島神宮(霧島市)、霧島東神社・狭さ野の神社(高原町)、東つま霧きり島しま神社(都城市高崎)、霧きり島しま岑みね神社(小林市)の五社の総称です。以前は文字通りの六社でしたが、霧島岑神社と夷ひな守もり神社が明治六(一八七三)年に合ごう祀しされたため、現在は五社となっています。六社権現の御ご祭さい神じんは日ひ むか向三代をはじめ天孫系の神々ですが、本来霧島神宮は、当初高千穂峰中腹の※1背せ門と丘おにありましたが、度重なる火山噴火によって焼失し、現在の地に造営されました。今年は霧島神宮の社殿が正徳五(一七一五)年に造営されてから三〇〇年を迎えることから、霧島神宮に関連した内容をシリーズで紹介します。※1 御鉢火口東端から高千穂峰山頂との間にある鞍部。※2 瓊に にぎのみこと々杵尊・木こ のはなさくやひめ花咲耶姫命・彦ひ こほほでみのみこと穂々出見尊・豊とよ玉たま姫ひ命め・鵜う がやぶきあえずのみこと葺草葺不合尊・玉た ま依よ り姫ひ 命め※3 延喜十(九一〇)年生まれ、九十八歳で亡くなったという説もある。※4 徳の高い僧侶が亡くなること。※5 江戸時代以前に神社を管理するために置かれた寺のこと。霧島六社権現←霧島神宮広報きりしま 18h i s tor y & geo park