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概要

広報霧島2020年10月号

そうです。ただ、そのような酒は高価なため、普段は焼酎を飲んでいて、特にサツマイモ(文中では琉球芋)で造ったものは、とてもおいしいと書いています。幕末の薩摩藩主であった島津斉なり彬あきらは、藩の軍事力強化の際、砲弾などの製造に必要な工業用のアルコールを米焼酎で製造させていました。しかし、サツマイモなら大量に、そして安く生産することができ、更に特産品にもなるということで、芋焼酎の大量生産を命じました。これが鹿児島の芋焼酎文化の原点とされます。大隅国分寺跡の発掘調査では、近世以降の土層から焼酎などを飲むときに使っていたと思われる「ちょか(土瓶)」が出土しており、焼酎をたしなむための酒器も生活に浸透していたと考えられます。南九州のような温暖な地域は、日本酒を造ることに不向きでした。だからこそ、サツマイモを使用した焼酎が造られるようになり、鹿児島の芋焼酎文化が発展したのです。芋焼酎造りはこれまでさまざまな改良が重ねられてきました。市内でも多くの銘柄が造られており、これからも改良を繰り返して新たな芋焼酎文化が広がっていくことでしょう。(文責=坂元)きたお酒を人々が飲んだというものです。現代では、このような酒を飲むことに抵抗がありますが、当時は最も作りやすく、気軽に酒をたしなむには最適な方法だったのでしょう。焼酎の移り変わり室町時代には米で造った蒸留酒である米焼酎が飲まれていたようです。「焼酎」の文字は、伊佐市にある郡山八幡神社の社殿の部材に書かれた落書きが今のところ日本で最古のものです。落書きには、永禄2(1559)年の文字と大工と思われる人物の名が記され「この時の住職はとてもけちで、一度も焼酎を飲ませてくれなかったので、なんとも迷惑なことだ」と書かれています。この落書きが書かれた頃は米焼酎だったと考えられますが、18世紀以降、南九州でサツマイモの生産が盛んになると、サツマイモを原料にした焼酎が造られるようになります。芋焼酎の誕生江戸時代後期に鹿児島を旅した京都の医者・橘たちばな南なん谿けいは、鹿児島の焼酎について記事を残しています。記事によると、鹿児島の人々は地元でたまに造られる清すみ酒ざけや濁にごり酒ざけはとても飲みにくいため、お祝いの贈り物や儀式などの宴会には京都や大坂から取り寄せた清酒を利用していた鹿児島県民にとって身近な存在である焼酎。11月1日の「本格焼酎の日」にちなんで、今回は鹿児島と関わりの深いお酒の歴史について紹介します。奈良時代のお酒奈良時代初期に各国の歴史や産物などをまとめたものを『風ふ土ど記き』といいます。大おお隅すみ国のくにの場合、日ひゅうが向国のくにから分かれてできたのが和銅6(713)年ですので、それ以降に編さんされたと考えられます。ただ、『大隅国風土記』は現存しておらず、ほかの文献に引用された部分が現在に伝わっているのみです。その中でも有名なのが「くちかみ酒」の話です。大隅国では、ある家が米と水を用意して村中に知らせると、村人が集まって米をかみ、酒さか槽ふねに吐き出すといったん帰り、お酒の香りがし始めるとまた集まって、でThe gateway to local history国分中央の大隅国分寺跡から出土したちょか(土瓶)鹿児島と酒23 Kirishima City Public Relations, Japan 2020.10, Vol.328