ホーム > 教育・文化・スポーツ > 歴史・文化財 > 文化財 > 指定文化財 > 文化財【霧島】

ここから本文です。

更新日:2019年12月12日

文化財【霧島】

  1. 霧島神宮本殿 幣殿 拝殿 登廊下 勅使殿 附 境内社門守神社
  2. 霧島神宮お田植え祭
  3. 九面
  4. 霧島神宮文書 二巻
  5. 棒踊り
  6. 辻堂の五輪塔
  7. イチイガシ
  8. オガタマノキ
  9. 霧島神宮社務所 一棟
  10. 華林寺墓地
  11. 霧島民芸村(展示販売棟、旧揺拝殿及び工房棟)

1.霧島神宮本殿 幣殿 拝殿 登廊下 勅使殿 附 境内社門守神社

旧記によると、霧島神宮は、第29代欽明天皇の御代(6世紀中頃)慶胤という僧が、高千穂峯と火常峯(現御鉢)との中間の背門丘(せとお)に、社殿をまつったのが初めてであるといわれます。しかし、この社殿も霧島山の噴火のために焼けてしまいました。

永い年月を経た後、天暦年間に性空上人が高千穂河原瀬多尾越に社殿を再興奉遷(御神体などを移すこと)しましたが、文暦元年の大噴火で神殿、僧坊等、全て焼失してしまいました。それから田口の待世(現在の霧島中学校の所)の行宮に移りました。
その後、250年経って1484年(文明16年)僧兼慶が藩主の島津忠昌の命を受けて再興したのが現在の御社地です。この後、火事で全焼の災いにあいましたが、1715年(中御門天皇、正徳5年)時の藩主島津吉貴の寄進によって建てられたのが現在の御社殿です。

本殿には、ニニギノミコト以下七柱をお祀りしています。絢爛たる朱塗の本殿、拝殿、登廊下、勅使殿等、その配置の妙を得て宏大で壮麗な美しさです。

霧島神宮写真

ページの先頭へ戻る

2.霧島神宮お田植え祭

昭和53年4月1日、町の文化財に指定されましたが、さらに平成3年3月15日、県無形民俗文化財に指定されました。

田の神舞は、旧暦2月4日に霧島神宮で五穀豊穣を祈願する御田植祭が行われますが、この時、神宮の社人である児玉・橋元両家の人たちが神舞を奉納するしきたりで、300年位前から先祖代々引き継がれてきています。

毎年、旧暦2月4日午前10時から祭事が始まり、第一声の太鼓と共に御神牛が「モー」と鳴いて境内を暴れ回り、祭事が終わると同時に御田植の神事が始まります。

霧島神宮お田植え祭写真

ページの先頭へ戻る

3.九面

今から300年位前、霧島神宮に祈願するために奉納された九つの面です。

主に伎楽面・猿田彦面で、当時石工として有名な海老原源左衛門が奉納したと言われています。

神面の数は九つで、この面を拝すれば工面(九面)がよくなるとのことで、拝観に訪れる人も多いです。また、工面がよくなるということから商工業者に信仰されて、屋号や商品などに使われています。但し、一般公開はされておりません。

九面写真

ページの先頭へ戻る

4.霧島神宮文書 二巻

霧島神宮文書は霧島神宮の所蔵文書で、永禄6年(1563)の島津貴久願文(がんもん)(神仏に対して祈願の意図を表す文書)や島津義久寄進状、島津義弘書状、島津家久書状など、貴重な文書からなっています。巻物仕立てで二巻あります。

現在は、黎明館に寄託されています。

霧島神宮文書写真

ページの先頭へ戻る

5.棒踊り

この踊りの由来は色々な説があって、一つに定めにくいようです。

  • ア.島津藩が士気を鼓舞するために、棒術を踊りに仕組みました。
  • イ.薩摩独自の示現流の剣法を舞踏化したものです。
  • ウ.伊勢神宮のお田植祭のお田植踊りをまねたものです。

このように、色々な説があります。

棒踊りは、昔からお田植祭や、農耕、祝事、神事の時に奉納されてきました。現在も、狭名田、田口、枦田、桂内の四集落で継承されています。

狭名田棒踊り

  • 昭和45年6月20日指定(市指定無形民俗文化財)

狭名田棒踊り写真

田口棒踊り

  • 昭和45年6月20日指定(市指定無形民俗文化財)

田口棒踊り写真

枦田棒踊り

  • 平成8年5月28日指定(市指定無形民俗文化財)

枦田棒踊り写真

桂内棒踊り

  • 平成11年3月31日指定(市指定無形民俗文化財)

桂内棒踊り写真

ページの先頭へ戻る

6.辻堂の五輪塔

田口の民家の門脇に水車を設備する時に、地中より掘り出されたものと伝えられています。五輪塔は当時大小二基あったといわれており、これが重ねられ、現在の形状になったようです。

この五輪塔は、誰の供養塔かわかりませんが、水輪に彫られている種子から密教系のものであると推定されます。また、造立年代は、その形態から室町時代以前と推定されます。

五輪塔というのは、五大にかたどった五つの部分からなる塔のことです。地輪は方、水輪は円、火輪は三角、風輪は半月、空輪は宝珠形をしています。平安時中頃から供養塔や墓標として用いられる石造りが多いです。

※塔婆は卒塔婆(ソトバ)の略称です。これは、釈迦の遺骨や遺髪などを納めて高く建設した記念物です。

辻堂の五輪塔写真

ページの先頭へ戻る

7.イチイガシ

向田七社神社の境内にあります。

根回り14.8m、樹の高さ約30mで人の胸の高さの樹の周りは6.4mの大木ですが、樹齢ははっきりしていません。

イチイガシは、ブナ科の常緑樹(一年中、葉が緑で落葉しない)で、材質は堅く船の櫓や農・工具の柄、やりの柄等に使われてきました。

イチイガシ写真

ページの先頭へ戻る

8.オガタマノキ

新地の民家の敷地内にあります。

幹周り3.9m。根周り5.0m、高さ20mの大きな樹木です。樹齢は分かりませんが、かなりの年数が考えられます。

オガタマノキ写真

ページの先頭へ戻る

9.霧島神宮社務所 一棟

霧島神宮の社務所は、昭和5年に建築された木造平屋建て、銅板葺、建築面積548平方メートルの建物です。南東を向いて建ち、正面中央には切妻造の玄関を突出し、北に座敷飾りを備えた応接室等、南には中廊下式で斎館や事務室等を配します。良材を用いた上品な造りの大規模和風建築で、複雑な平面に対応した屋根を巧妙に架け、落ち着いた景観を構成しています。

霧島神宮社務所一棟写真

ページの先頭へ戻る

10.華林寺墓地

霧島山錫杖院華林寺は、西御在所霧島六所権現社(現在の霧島神宮)の別当寺で、鹿児島市にあった大乗院の末寺でした。欽明天皇の時に慶胤上人が開山したと言い伝えられており、のちに霧島山の噴火によって建物が焼け、応和年中(961~964)に性空上人が中興して天台宗となりましたが、文暦元(新暦1235)年の噴火で焼けてしまいました。その後、文明年中(1469~1487)に、島津家第11代・忠昌が兼慶上人に再建させ、真言宗に改められました。

華林寺は多くの堂塔があり、この地域を代表する寺院でしたが、明治初頭の廃仏毀釈によって失われてしまい、現在ではその面影を伺い知ることはできません。しかし、この墓地には近世以降、華林寺に関係のあった僧侶の墓が多数残されており、また、周辺の真言宗寺院の名前も墓石に刻まれていることから、近世の華林寺の様子や霧島市域の仏教史を知る上でとても貴重であるので、市の史跡に指定されました。

華林寺墓地写真

 

ページの先頭へ戻る

11.霧島民芸村(展示販売棟、旧遥拝殿及び工房棟)

霧島民芸村は、建坪300坪の巨大木造建築で、昭和15年(1940)に作られました。戦時下の教育に対応すべく、中堅指導者の再教育を目的として建てられたものです。

主屋である展示販売棟は屋久杉の格天井の84畳敷の大広間があり、周りに廊下にまわしている寝殿造に倣った建築です。屋根は鉄平石で葺かれており、県内では唯一です。

廊下でつながっている旧遥拝殿には昭和天皇に下賜されたという2本の床柱が正面の床の間に安置されていて、三方に廊下を廻している観音堂風の伝統建築です。

現在、陶芸等の工房棟として使われている場所は、畳敷きの宿泊所として使用されていたと考えられます。

寝殿造に倣った伝統建築であり、県内で最大規模の木造建築であり、戦時下に建てられた研修施設がそのまま残っているという点で非常に貴重です。

 霧島民芸村写真1 霧島民芸村写真2

ページの先頭へ戻る

 

 

お問い合わせ

教育部社会教育課文化財グループ

〒899-4394鹿児島県霧島市国分中央三丁目45番1号

電話番号:0995-64-0708

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?