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更新日:2019年12月12日

文化財【国分】

 

 

1.鹿児島県上野原遺跡出土品

上野原遺跡から出土した縄文時代早期後葉(約7,500年前)の一括資料767点が国の重要文化財に指定されています。

出土品は、深鉢形土器、壷形土器、鉢形土器、石器、土偶、耳飾など多岐にわたり、埋納された2対の完形の壷形土器等、祭りなどの儀式に使われていたものもあったと考えられます。

当時の人々の生活や、精神文化を知る手がかりとなる貴重な資料です。

 

鹿児島県上野原遺跡出土品写真1 鹿児島県上野原遺跡出土品写真2 鹿児島県上野原遺跡出土品写真3

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2.大隅国分寺跡(附宮田ヶ岡瓦窯跡(つけたりみやたがおかかわらかまあと))

奈良時代の聖武天皇は、天平13年に国家の鎮護と五穀豊穣を祈って、国ごとに僧寺と尼寺の建立を命ずる勅令を出しました。国分の名の由来となった大隅国分寺は、奈良時代末期から平安時代初期にかけて建てられたといわれています。今では、康治元年(1142)の銘のある六重層塔と石像にその名残をとどめています。

平成16年5月には、姶良市の宮田ヶ岡瓦窯跡が、大隅国分寺の瓦を作成した窯として追加指定されています。

大隅国分寺跡(附宮田ヶ岡瓦窯跡)写真

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3.上野原遺跡

上野原遺跡は、国分上野原テクノパーク(工業団地)建設に先立ち平成4年度から発掘調査を開始しました。その成果として縄文時代早期前葉(約9,500年前)から弥生時代までの遺跡・遺物が見つかりました。

集落には、竪穴住居跡52軒、石蒸料理の施設と考えられている集石が39基、燻製を作ったと思われる連穴土坑が16基見つかり、その他土器や石器などが出土しました。

上野原遺跡写真

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4.高座神社の社叢

高座神社は城山公園の北東部の山腹に位置し、周りは山間地帯となっています。その中に鎮座する神社を囲むように社叢(神社の森)が生い茂り、神社の境内にはナギとイチイガシの両巨木が育成しています。

ナギは樹齢800年以上の巨木で現生するナギの単木としては日本最大級といわれています。また、イチイガシも樹齢300年以上の巨木で県内最大級といわれています。このように2種の巨木が同境内に自生していることは大変珍しく貴重なものです。

高座神社の社叢写真2 高座神社の社叢写真3 高座神社の社叢写真1

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5.朱門

舞鶴城は、島津義久が慶長9年(1604)隼人の富隈城から移り住んだ日常生活をする館造りの城でした。「国分諸古記」によると城は89間四方あり、その中の約50間四方が石垣に囲まれ、屋形があったようです。朱門は舞鶴城内にあったと考えられていますが、その場所ははっきりしていません。昭和50年に国分市制20周年事業の一環として修復し、ゆかりの舞鶴城の石垣前に復元されていましたが、平成18年に国分小学校のグラウンドへ移設されました。

朱門写真

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6.朱印状

島津義久は、富隈在城中に琉球貿易に力を入れていました。琉球渡航の船には規定の印判が必要でしたが、島津氏はその印判の押された「琉球渡航朱印状」の発行許可権を幕府から与えられていました。

この朱印状は、慶長7年(1602)に義久が大隅国富隈之湊住吉丸の船頭彦兵衛尉に与えたものです。彦兵衛は航海の術に優れていたとみえ、慶長14年の琉球出兵の時にも船頭として参加し、手柄を立て、新たに知行をあてがわれています。

朱印状写真

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7.文政六年の道帳

道帳は、国分郷内の道路を村ごとに詳細に調査したものです。道帳が出来上がる13年前に幕府御用の測量隊、伊能忠敬一行が、海岸地域の詳細な地図を作成しており、この測量結果に呼応して作成したものと思われます。

国分郷の道帳と同じころ、「高山名勝誌」などの薩摩藩各地域の地誌も完成しており、これらをもとに藩全体の地誌を集大成したものが「三国名勝図会」であったと考えられています。

このように、道帳は当時の国分地域の様子を知るうえで大変貴重なものです。

文政六年の道帳写真1 文政六年の道帳写真2

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8.三累環頭大刀

昭和28年12月、向花小学校の校地拡張工事中に六振り鉄剣と七本の鉄鏃(てつぞく)、土器類七個が掘り出されました。この遺跡を「亀ノ甲遺跡」といいます。

この大刀は、六振りの鉄剣の中の一振りで柄頭に三個のC形の輪を重ねた装飾があるため、三累環頭大刀と呼ばれています。8世紀の頃に埋葬されたものと考えられます。

三累環頭太刀写真1 三累環頭太刀写真2

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9.城山山頂遺跡出土品

城山山頂遺跡(城山公園)から、5世紀前半の南九州で作られた土器(成川式土器)と近畿地方で作られたとされる土器(布留式土器)が同じ竪穴住居から出土しました。このことから、当時すでに近畿地方との交流があったことがわかります。

また、これは古事記、日本書紀にも出てくるクマソ、隼人にも関係があるものとして、大変貴重な資料です。

城山山頂遺跡出土品写真2

布留式土器

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10.止上神社の面

国分重久にある止上神社は、仮面の所有数が県内で最も多く、全国的に見ても非常に珍しいものです。面の総数は54点で、信仰仮面のうち親王面が3点、王面が39点、大型鬼面が1点、芸能仮面のうち神舞面が11点となっています。

仮面数が多いだけでなく、記銘入りのものも多く存在しており、また、仮面の種類から地域性がうかがわれ、大変貴重です。

止上神社の面写真1 止上神社の面写真2

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11.宝塔

府中の祓戸神社付近はかつて大隅の国府があったところといわれており、そのため近くにある宝塔も国府役人に関係するものと考えられています。宝塔は「法華経」が説く多宝如来と釈迦如来を本尊とする一重の塔ですが、密教では金剛界大日如来を表現しているといわれています。

宝塔の形式は、基礎(方形の台)、塔身(壷形又は筒形)・笠(四角い屋根)・相輪(笠の上の部分)からなっています。この宝塔は造塔の様式から、鎌倉初期、税所氏のものだろうといわれています。

宝塔写真

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12.島津義久の墓所〔金剛寺跡〕

城山公園の登り口、金剛寺跡に薩摩藩第16代藩主島津義久の墓があります。5m以上ある石造りの層塔で「妙谷寺殿貫明存忠庵主」と刻まれています。義久の遺体は鹿児島市の福昌寺に葬られましたが、その一部(抜歯といわれる)が祀られたものとされています。

島津義久の墓〔金剛寺跡〕写真

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13.島津義久の墓〔徳持庵跡〕

上井徳持庵跡の義久の墓は、廃仏毀釈で徳持庵が破壊された後、金襴の袋に納められていた分骨を、明治8年に埋葬した墓といわれています。「大國豊知主命」「慶長十六年辛亥正月二十一日」と刻まれた石塔で、文化財的に大変貴重です。

島津義久の墓〔徳持庵跡〕写真

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14.真応上人石室

金剛寺跡の境内の南西に「お上人様」といわれ、今も人々の崇拝を集めるお堂があります。お上人様とは金剛寺10代住職真応上人のことで、お堂の後ろにある石室は、上人入滅のところです。元禄5年(1692)上人74歳のとき、三尺四方の石室を造り、その中にこもって昼は読経、仏像の彫刻、夜は念仏を唱えて当山守護のことを祈る日々を送りました。入室から7年、元禄11年(1698)80歳で入滅するまで、遠方からもその徳を慕って多くの人々が礼拝に訪れ、病や痛苦も除かれたと「真応上人修行記」にあります。

真応上人の石室写真

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15.橘木城跡供養塔

重久の橘木城(西ノ城)跡には古石塔類が多数残存していましたが、観光開発により多数が散逸してしまいました。かろうじて難を逃れた2基の供養塔を国分郷土館に移設保存しています。

いずれも正面に「南無阿弥陀仏」の6字が薬研彫りされています。南北朝時代の城主重久篤兼が建立したものとみられ、建武3年(1336)と暦応4年(1341)の刻銘があります。

橘木城跡供養塔写真

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16.十三仏(じゅうさんぶつ)

十三仏とは、死者のため追善供養の法事を営むとき初七日から三十三年忌まで、十三回の年忌ごとに配される仏、菩薩のことで初七日の不動(ふどう)から釈迦(しゃか)、文殊(もんじゅ)、普賢(ふげん)、地蔵(じぞう)、弥勒(みろく)、薬師(やくし)、観音(かんのん)、勢至(せいし)、阿弥陀(あみだ)、阿閦(あしゅく)、大日(だいにち)、虚空蔵(こくうぞう)の十三仏です。

県内では、他に薩摩川内市(旧樋脇町、旧入来町、旧川内市)、さつま町(旧宮之城町)、湧水町(旧栗野町)、出水市(旧野田町)、霧島市(旧隼人町)などにみられますが、この十三仏は「永正十一年(一五一四)」と刻まれており、県内最古級のものと考えられます。また、普通十三仏塔は一つの石碑に十三の仏種子を配していますが、個々の石碑に仏を施しているものは全国にも例が少なく、大変貴重です。

十三仏写真

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17.カヤ

カヤは本州(宮城・山形以西)、四国、九州、屋久島に分布する雌雄別株の常緑高木です。材質は緻密で非常に堅く、木工、碁盤、将棋盤に利用されています。種子からとった油は最高級の食用油として、また薬用としても利用されます。国分塚脇の宮毘神社境内にあるカヤは、樹周4.9m、樹高約24m、樹齢推定500年以上で神木となっています。

カヤ写真

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18.クロガネモチ(雄株・雌株)

クロガネモチは本州(関東以西)、四国、九州の暖帯に自生する雌雄別株の常緑広葉樹です。国分では江戸時代から郷土の家に植えられ、大きく成長したものがみられます。昭和47年旧国分市の市木に制定されたのを受けて、巨木の雌雄木を一本ずつ指定しました。

クロガネモチ(雄株)写真 クロガネモチ(雌株)写真

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19.オガタマノキ

関東南部以西の温暖地帯に自生し、高木となります。和名は「招魂(おきたま)の木」の転訛したもので、この木を神前に供えて神を招くという意味から、神社によく植えられています。この木は樹齢推定600年以上、樹高約20mで最高級の高さを誇っています。

オガタマノキ写真

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20.青葉の竹

国分台明寺の日枝神社の境内に青葉の竹林があります。俗に台明竹ともいい、笛の用材として宮中に奉納されていました。奉納するときは、府中の鏡ヶ池に浸しておいて、葉の付いたまま姫城の妙見神社(稲荷神社)に奉納してから捧持(ほうじ)したといわれています。源平合戦のとき、一の谷の合戦で散った平敦盛が秘蔵していた「青葉の笛」もこの台明竹であったと伝えられています。

青葉の竹写真

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21.乗林寺深亮房覺遍の墓

覺遍は尾群山錫杖院乗林寺の第32世の住持で、学徳ともに優れた名僧でした。彫刻家、仏師としても非凡な才能を持っていました。また、止上神社の鳥居再建の竣工式で祝詞をあげるなど多大な功績を残しました。

覺遍の墓は高さ130cmを測り、基礎と軸部の側面に碑文があります。軸部の正面には月輪型の穴があり、中には「覺遍」と書かれた石の板が納められ、穴の周辺には蓮華などの装飾を巡らしています。一部に欠損があるものの、岩窟内部に納められているため、きわめて保存状況がよく、貴重な文化財です。

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22.台明寺日枝神社本殿

国分平野の郡田川の上流の谷間にあった「台明寺」は、古記録によると天武天皇元年(673)の創建とあるが、国分府中にある大隅国府の東北(鬼門)方向にあることから国家を鎮護する寺院として、鎌倉時代からは祈祷寺院として発達してきました。日枝神社は、台明寺の守護社として創建されたと考えられます。

日枝神社の社殿については、創建は建仁3(1203)年とありますが、「正徳5年宝殿ノ新築アリシヨリ茲二八三年」「近年頗ル破壊ニ傾キタルヲ以テ改築等ノ事ヲ企テ 工ヲ明治廿年二月ニ起シ・・」と『日枝神社明細書』に書かれていることから、江戸時代中期と明治時代に大修復したことが分かります。

日枝神社の本殿は、正面の間口が7間で奥行が2間の形をしており、極端に奥行が浅い構造(七間社流造)となっています。間口が7間の本殿を持つ神社は極めて少なく、西日本では大阪の吉志部神社の本殿に見られますが、奥行は3間であり、奥行2間の形状は非常に珍しく貴重な社殿様式となっています。

日枝神社写真1 hie-jinjya2

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教育部社会教育課文化財グループ

〒899-4394鹿児島県霧島市国分中央三丁目45番1号

電話番号:0995-64-0708

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