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更新日:2024年5月9日
国の天然記念物「ノカイドウ自生地」は、鹿児島県・宮崎両県のえびの高原にあります。ノカイドウは、えびの高原の渓流沿いに自生しているバラ科リンゴ属の落葉小高木の植物で、5月上旬に薄桃色がかった白い花をいっせいに咲かせます。
ノカイドウは、明治42年(1909)に牧野富太郎博士によって発表され、大正12年(1923)に内務省が国の天然記念物に指定しました。世界中でえびの高原とその周辺にしか自生しない貴重な植物です。
現在、約300株(鹿児島県内は約70株)しか自生していません。高木層の被圧やシカの剥皮などにより絶滅の恐れもあることから、環境省のレッドデーターブックでは絶滅危惧IA類に分類されています。
伊邪那岐神社(下中津川字後迫427)入口の階段を70mぐらい上がった両側に、高さ約2mの仁王像が1基ずつ建っています。仁王像は、仏教保護の石像として建立されたもので、この像は高尾山寺(和気清麻呂が流された寺)のものを移したといわれています。
右側の仁王像は、目を見開き口を大きく開けて、両腕を腰に構えています。右手はしっかり拳をにぎっていますが、左手は手首から欠けています。
左側の仁王像は、目を見開き口は一文字に結んでいます。右腕は拳をにぎり肩の高さまで持ち上げています。左の腕も拳をにぎって腰に構えています。この仁王像の背には、寛文8年(1668)3月吉日の銘があります。
昭和47年、霧島温泉商工会青年部の若者たちが霧島温泉に郷土芸能をつくろうと考え、霧島神宮に伝わる九つの面、いわゆる天孫降臨の神話にちなんで天降りの打法、演舞など基本的な所作を振り付けて創作したものです。
基本的所作は、その昔アマテラスの命により、霧島神宮の御祭神(アメニギシクニニギシ アマツヒタカ ヒコホノニニギノミコト)が国ツ神サルタヒコの道案内を得て、霧島山高千穂峰に天降られた光景を表したもので、霧島温泉の若者たちが、その神話と伝説を後世に伝え残しているものです。
現在は、女性だけの「和奏(わかな)」と中高生の「郷花(はるか)」も組織され、各地で活躍しています。
牧園町には田の畦に立っているものや持ち回りの小さいものなど沢山の田の神がありますが、文化財に指定されているものは次の三体です。
持松竪神社境内にある田の神は、享保20年(1735)7月吉日の銘があり、牧園町内では一番古い田の神です。衣冠の姿で両手を膝に置き角張った座像です。
上中津川溝口にある田の神は、高さ1mくらいの自然石に「御田之神」と刻んであり、宝暦12年(1762)の建立です。
高千穂栗川にある田の神は、雑木林の小高い丘の上にあり、高さ50cmくらいの自然石です。「御田之神」明和6年(1769)6月12日の銘があります。
所在地
竪神社の田の神 |
溝口の田の神 |
栗川の田の神
三体堂中福良の民家の裏山の中腹にある三基の石塔です。熊本県相良氏の庶流である永留氏が生前に建立した逆修塔だと言われています。中央の宝篋印塔の宝輪に一条を刻し、中心にある相良一族の文様の両側に縦六条を刻しているのが永留氏の三代目を示すものです。永留氏の縦条は、初代が四条、二代が五条、四代が七条、五代が八条だと言われています。
この宝篋印塔には刻名はありませんが、これらの文様で相良一族の永留氏三代目頼積の石塔であることがわかります。
昔から「ソガドン墓」と言われたのは、この石塔を代々観てきた井手上氏が曽我一族の伊東の出だからだといわれています。
牧園町持松の臼崎には、中世石塔の累積群があります。その中の一つには、台石に金阿弥陀仏の時衆宗の法号と、「康安2年(1362)3月17日孝子施主敬白」の文字が刻まれています。台石上面の反花蓮弁の彫刻から、熊本県人吉の領主相良氏のものであり、相良家八代実重の父前頼の夫人のものだろうといわれています。三体堂中福良の宝篋印塔(ソガドン墓)や下中津川改田口の石塔、下中津川犬飼の畦地観音の石塔群は相良氏一族永留氏のものであり、どれも鎌倉時代から南北朝、室町時代までのものだといわれています。
宿窪田タッガ迫にあります。墓石の正面に「元和7年辛酉、然叟清廓庵主、5月29日」とあり、右の面に「島津源七郎忠直」と刻んであります。
源七郎忠直は、宮崎佐土原の領主となった島津家久(義弘の弟)の二男として生まれ、幼少のころ川内東郷家の養子になりました。慶長19年(1614)から元和7年(1621)まで三体堂村の領主としてこの地に住んでいました。
「本藩人物誌」によれば、1614年に本城から三体堂に移り、1620年に18代藩主家久が忠直に三体堂村714石を与えています。その翌年48歳で亡くなりました。
土地の人たちの伝説によれば、忠直の家が夜襲をかけられたとき、白い鶏が時を告げて危ないところを救ってくれたので、それから白い鶏は決して食べないといわれています。
島津源七郎忠直の墓を30mくらい入った所にあります。墓に竿石は無く、台石の上に板石に彫られた阿弥陀像が置いてあり、その上に陶製のすり鉢がかぶせてあります。
墓石の近くに副碑が建ててあり、源七郎忠直の姉であることが分かります。副碑には「花林長春大姉、父は島津家久、母は樺山善久の娘。永禄9年(1566)生まれ。はじめ根占重張の嫁となり、しばらくして離別。島津が秀吉に降伏した時、人質の1人として京都に上がった。京都に14年間いてのち、義弘の住む加治木に移り、元和7年(1621)4月22日忠直と同じ年に56歳で死んだ。」と書かれています。
この墓は文政6年(1823)5月、死後202年後に建てられたと思われます。
牧園町と横川町、隼人町が接する天降川の中流域では、加久藤カルデラ(約30万年前)と阿多カルデラ(約10万年前)、姶良カルデラ(約2万9千年前)から噴出した火砕流が連なって露出しており、地質学的に貴重な地域です。また、水の流れによって回転した軽石などが、軟弱な岩盤を削ってできた甌穴群を見ることができる点も貴重です。
この大茶樹は、江戸時代初期寛永年間(約380年前)に植えられた茶樹(昭和20年国の天然記念物として指定)を明治終わりごろに挿し木したもので、樹齢100年、樹周0.67メートル、樹冠の広がりは南北6.4メートル、東西6.1メートル、高さは4.1メートルに達し、県内で最古・最大のものといわれています。
茶樹は茶を摘むため時々根本から剪定して茶摘みをしやすくすること、また人々の茶への嗜好が時代とともに変化し、それに伴い茶樹の品種改良が進み、古木は伐採されてきたことなどから、古木と見られる大茶樹は多くありません。
規模、歴史ともに大変貴重な大茶樹です。
九州電力妙見発電所は牧園町宿窪田の天降川沿いにあります。大正6(1917)年から大正10年にかけて大規模なトンネル工事を行い、5月には試運転を開始、9月に正式使用が許可されました。翌11年11月には2号機も試運転を開始し、3号機は昭和5(1930)年5月に運転を開始しました。
妙見発電所本館は2階建ての配電盤室棟と平屋ながら高い吹き抜け空間を有する発電機室棟の2つから構成されています。そして、出入口はアーチ形をとどめています。建物に使用されている石材は凝灰岩で、後年白色に塗装されています。
鹿児島県内に残る石造発電所の中でも最も規模が大きく、石に細かい装飾を施して、窓周りの意匠などに高度な石工技術を認めることができます。
ヘッドタンクは上部水槽ともいい、流量の変化を吸収し、水車への異物の流入を防ぐ役目があります。妙見発電所には正面向かって右側より1号、2号、3号と3本の水圧鉄管があります。1号は中津川より取水し、2号3号よりも高い位置に円筒形のヘッドタンクを築いています。2号と3号は天降川より取水し、山の中腹付近にヘッドタンクを築き、水を流しています。途中、水圧鉄管の上を道路がまたぐために石造アーチをかけてその下に水圧鉄管を流しています。
発電機は運転開始時期が3基とも異なりますが、建設当初から3基設置する予定であったことが考えられ、(九州電力の考えによる)、本館及び放水口建設とともにヘッドタンクも3基分同時に建設されたものであると考えられています。
妙見発電所本館と同様、ヘッドタンクも建設当初の石造の構造体を概ね残していて、とても貴重なものです。
所在地
九州電力妙見発電所本館 一棟
九州電力妙見発電所1号機ヘッドタンク 一基 |
九州電力妙見発電所2号機及び3号機ヘッドタンク一基 |
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