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更新日:2016年2月29日

山ヶ野金山物語

金山川を下流とする宮之城の川の中を久通というおさむらいさんが下をじっとみつめながら歩いていました。するとなにやら水の中できらっと光りました。「ひょっとしたら金かもしれない。」はやる心をおさえながらおそるおそる水の中に手をつっこんで、その石を手に取ってみました。石にはきらきら光るものがたくさんついていました。
「やったぁ、金鉱だ。」
久通は飛び上がって喜びました。その金鉱をふところにしのばせて家路へと急ぎました。寛永17年(1640)のことでありました。そのことが山ヶ野金山の歴史の始まりでもありました。

永野から山ヶ野までの12キロメートル四方全域を柵で囲み、日本全国から金を掘る人を2万人も集めました。それからというもの、山を崩し岩を割る音が、昼夜を問わず響きわたりました。そして、山ヶ野に33町、永野に10町もの町がたちまちにしてできあがりました。「金山万覚」(注)によると、1万2千人くらいと伝えられています。山には、金山奉行のもとに物・山・町の三奉行のほか、それぞれの役所が並び、50数条のおきてなどが定められました。

鉱脈を追うに従い作業が困難になり、遅れた技術では大事な金を逃がしてしまうこともありました。かたい岩をつるはしでくだき、一日中穴の中にいて岩を掘り、くだいた石を竹かごの中に入れ、坑の外に外に運び出すのです。穴もやっと人が通れるくらいのせまい穴です。穴の中の仕事は、ローソクの火をたよりに1日掘っても30センチメートルにも及びませんでした。おまけに、くだいた石の粉で息さえするのが困難でした。そのため、病気で死んだり、けがで死んだりするものも相当いました。仕事がきつくて逃げ出すものもいました。

「何かよい方法はないものだろうか。何とか犠牲者を少なくできないものだろうか。」
いろいろ迷ったあげく、島津氏は西洋の進んだ掘り方を学ぼうと長崎に人をつかわし、またオランダ人に欧州の発掘法を勉強させ、それを取り入れました。その中に新兵器として電気爆破法がありました。

そして結局は文明の学術を応用するしか道はないと、明治10年、フランスより鉱山技師ポール・オジエを招き、20数万円もの資金を投じて、すっかり古法を改め新式による通路、堅坑を作り水力や蒸力を利用し、その後さらに改良が加えられました。おかげで病気で、死んだり、けがをしたりするものが急激に減り生活の暮らし向きが良くなりました。

昭和に至り、昭和33年300年余り続いた山ヶ野金山は幕を閉じました。

注:「金山万覚」富島伝右衛門、貞享2年(1685)ごろの終筆。

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